12.20.13 瀬高早紀子
1ヶ月に一度くらいのペースで明け方まで眠れない日がある。
眠れないときは何をするでもなく頭に次々浮かんでくることをへえ〜と客観視しながら回転させていく。
へえ〜=そんなこと思い出すんだね、と。
6歳か7歳くらいからの記憶。けんちゃんラーメンのバカ殿の鳴門(なると)。
ちんたら食べているおかげでのびきった麺にはりついた、なるとのより目と自分の目が合っている。
大学時代、念願のひとり暮らしのとき。
地元の友達が「やまざきのコッペパンのつぶあん&マーガリンがすごくおいしい」というので一口もらったら、
なんかいい、おいしいとかじゃなくてイイ、こういうの、
とじわじわ思いながら、一本のコッペパンを一日(もしくは冷凍しながら数日)かけて食べていた、一時のブーム(大学生の前半はとくにこういう衝動があった)。
古着屋の店番しながらカウンター越しに隠れて飲む、暖取りを兼ねた缶コーヒー。
BOSSかWONDA。
外は熱々なのに、中はすぐにぬるくなる。
わかっているけど買ってしまう、という自分の性をも暗に含んだ、ビミョウ〜(加減)。
その一言によって片付けてられていたものが、「缶コーヒーは缶コーヒーの味がするものでコーヒーとはまた別の飲み物」と結論づけられるまでには3年ほどかかる。
いまの生活では調味料とアジアン食材とバナナとアボカド以外はほぼほぼオレゴン産。家から半径が近ければ近いほどよし、という基準で選ばれている。むろん、納得できる方法で育てられ、会社や組織としても信頼できる人、店、団体から買う、という条件も大事。
バナナとアボカドと先に言ったものの、それらは当然、ポートランド近辺では育たない。そんな理由から買うことに躊躇しがちな人間と暮らしていることを自分への実験として、わたしはおもしろがっている。
取材と名乗るほどかしこまったものでもなく、住んでいる人がどんな意識でものを選び、というより、無意識レベルで何を選び、何を還元しているのか、といういちいちを、ふとしたときに感じていきたかったからだ。
風邪をひいたときの食べ物や、休日の朝の景色とか、グッドウィルの混み具合とか、スーパーのトイレットペーパーの種類とか、世間話の流れや行動から自分が何を感じ、選んでいくのかな、と。
つまり、片時も気が抜けない実験が自らにいつも課されているのだ。
で、昨日の晩。
長い暗闇の螺旋は寝室の天窓までもつながっていた。
ああ今夜も長い、という諦めと、けんちゃんラーメン、つぶあん&マーガリン、缶コーヒーと自分の映像(くっきり)。
ああこれはきっと6歳くらいから実はすでにあった背徳行為(親や栄養表示や自分のボディへの?)からの罪悪感がいまだ、つきまとってきているのだ。
今宵の「眠れない」はこういうお役目だったか。
まだ真っ暗な朝6時までの記憶はあるが、またいつもの通り、8時半近くになっていた(わたしが目指す早起きについては、いつか触れたい)。
毎度ぎりぎりの朝、キッチンに行き、気づいた。
1日目にして昨晩、断食にくじけていたのだ。
ジュースで終わらすつもりがスープを飲み、そうめんを平らげ、そのインスタント懺悔からミントティーを飲んだ。
寝付きと腸の調整を促すためのそれだったのに、その目的はともにまったく果たされないまま、残りがテーブルに置かれていた。
断食は過去に2度試みて、ともに挫折。罪悪感が罪悪感を呼んだのか。
予期せぬ邪念がぼんぼんわき上がる瞑想の時とかなり似ている現象の夜だった。
そもそもなんでわたしは断食をやろうと試みたのか。
断食に、瞑想に、
何かに頼っていま答えをねじり出そうとしている、
ということを口に出して自分に言い聞かせても、まだやらずにはおれない自分がいることを発見した、
そんな夜から朝の実験だった。