12.25.13 明音
大阪行きと京都行きの線路に挟まれた、踏切だらけの西大寺という町から離れた場所に引越して2年と少し経つ。
かねてから奈良の生活では車が必要だと思いながら、先延ばししていた運転免許を一念発起して取りに行くことにした。
今は、車に乗らなくても身分証明書代わりに免許を持つ人もいるくらいなのに、私は保険証があればいいじゃない、狭い路地の運転怖いし、教習所で怒られたくない。
兎に角、余計なストレスが嫌で必要以上に運転免許を拒んでいた。
教習所の入校式から3週間経った昨日は、交通事故についての授業があった。
日本では12年連続、年々交通事故死が減っている。
理由のひとつは、医療の発達もあり負傷者は一命を取り留めていることもあるらしい。
これまでの学科教習で、指導員である先生の友達がバイクや車の衝突事故で亡くなった話をいくつか聞いていた。
先日の先生は、数年前から交通事故を含め身内や友人が亡くなり続けて、
お通夜、ご葬儀、法事が毎年続いてしまうという話をした。
「自分(先生自身)は何故ゆえに不幸なのか、
お祓いしようか?と思い詰めてしまった、」と。
確かに身内が亡くなると、今年は不幸があって…と、私も使う言葉だ。
授業の柱は、交通事故は悲しい、遺族のことを考えて!!
という話のプロローグに仏教の儀式について触れたもの。
それなのに、私には、不幸と不吉、その言葉だけが耳に引っ掛かってしまった。
人が亡くなりご葬儀が終わると、初七日、四十九日、納骨…一周忌、三回忌、七回忌、十三回忌と続く。
毎年1人亡くなると一周忌と丸二周年で執り行う三回忌は重なることもあるとか思う。
ゆえに、1年で2回、3回とご法事が行われ、親戚や友人が多ければ多いほど、回数が増えるのは必然となる。
必然だと思う私は、祖母の葬儀が不幸だとは思わなかった。
大好きな知人が亡くなった時は、もっと生きていてくれれば良かったのに、
という後悔が大きく悲しく辛い期間もあったが、この時も不吉だとは思わなかった。
その上、私は、通夜、葬儀の時は、清め塩は使わないようにしている。
亡くなった祖母たちは、私にとって死穢という穢れではないからだ。
人は、死ということをどのように捉え、受け止めているのだろう。
昨年、喪中はがきを送った際も、年明けに【 物忌み知らず 】と1枚の年賀状が知人から届いた。
『 私とあなたの年賀状というご縁が無くなってはいけないし、
あなたが喪であることを私は気にしていないですよ。』
というコメントがあった。
その時、温かい気遣いへの感謝ととても優しい気持ちになったのを覚えている。
ご法事やご葬儀の際、粛々と流れていく退屈な時間も、
自分はどう思っていて、これからどうしたいか、
という気持ちが少しでもあると、全てが不幸だなんて思わないはず。
今まで故人と一緒に過ごした時間を思い出したり、
楽しかった出来事や、故人に教えられたこと、
そのことは良い思い出とは言えないだろうか。
出会わなければ、自分の中にその思いも悔しさも何も残らない。
死ぬということは、出会ったゆえの別れ。
奈良にいるのを言い訳に祖母たちの法事に行かずじまいでいるが、
心の中で思い出すようにしている。
たまに思い出して、忘れずに生きてる。
昨夜は、クリスマスイルミネーションを求めて京都嵐山へ。
前日にイベントは全て終了していて、真っ暗な渡月橋と川沿いを歩いてきた。
先月見頃だった紅葉は、種を残すだけ。街灯も暗いけど、空いててちょうど良い散歩だった。
気の向くままに過ごしていたら、年の瀬は目の前に。
そろそろ、年賀状作らないと。