Hudson通信 4

2.2.14 石井文得

subway_music

思い返せば、2000年秋。
NYに移って一ヶ月程経った頃、アコスティックギターを買った。

同じ時期にちょうど渡米した、東京のアルバイト仲間だった一つ年上のシンガーソングライターの裕子ちゃんの部屋にはギターがあって、
「CとDとGのコードが弾けると、ボブディランとビートルズの曲、歌いながら何曲か弾けるよ」
って、AとEも含め、いくつかのコードを教えてもらった。

当時は友達も少ないし、とにかく時間が沢山あったから、私も練習してみるか!
と思って、裕子ちゃんに付いてきてもらって、ブリーカーストリートの楽器屋さんで安めのギターとビートルズのコードブックを買った。

目印の目立つサングラスをかけたU2のボノ(か、とってもぽい人)もショッピングしていた。
あれ、ボノじゃん?って、裕子ちゃんとこそこそして、店を出た。

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語学学校で出会った、ヘアースタイルが似てたから若い頃のポールマッカートニーみたいな、ブラジル出身のアーティストのアマンドは、ジャーナリストの彼女と一緒にイーストハーレムのロフトに住んでいた。私のアッパーウェストのアパートメントとほぼ反対側に位置していたので、バスで横断して、彼らの家にはよく遊びに行った。
厳戒態勢のひかれた様なビルディングで、尖った鉄の網が塀の上に組まれてた。

家の前について電話をすると、下まで迎えにきて鉄格子のドアを開けてくれる。
建物に入ると、
”Please don’t shoot the gun. Kids live here (子供も住んでます。銃は撃たないでください。)”
って張り紙が、ちょこちょこ貼ってあって、アマンド曰く、
「この前も違うフロアーで過激な映像撮影をしているらしく、わざと間違えた振りをして、派手な格好をしたトランスベスタイト(服装倒錯者)の大きな人が、うちのドアノックして、宣伝をしに廻ってきたんだ」

ニューヨークに来て初めての見たロフトが、彼のアパートだった。
天井が二階分の高さで1面は大きな窓。彼の制作場所でもあるスタジオロフトは、工事現場サイト用の立ち入り禁止サインに使われているフェンスの台で作られた、大きなテーブルの上で、当時はシリコンを使って作られたスカルプチャーペインティングが、日に日に形を変えて行っていた。

凄く格好良くて、自分もこういうものを作れるアーティストだったら良かったのに、と、芸術とはあまり関係なく育ってきたスポーツ少女の私は、アーティストというものに憧憬の念を抱いた。

am1<窓辺のアーマンド>

今から考えると、すべてが新しい経験だったから、普通に生活が出来るようにすることで精一杯の毎日だった。デリにある量り売りのサインでも、Lbs(パウンド)をエルビーエスって何だ?って読むのもわからなかったくらいだし。

アマンドはNYでは自分の作品をどこのギャラリーにも見せに行かなかったから、この街では名前が残らなかったけれど、私が知っているアーティスの中でも、非凡な才能の持ち主の天才/true artistだと確信する。

9.11の後には、グランドゼロに通っては、壊れたビルや窓の破片、消防車や、警察官の服等、チャコールと大きな紙を持って、rubbingして、紙の上に写し取ってその時の様子をドキュメントもしていた。
数年間NYに滞在した後、ブラジルに戻って今ではアートの教授をしている。私も一回プライベートで教えてもらったことがあった。感動した時間だった。
ブラジルに戻ってからも、楽器を一切弾いたことのない友人を募ってはバンドを始め、超有名バンドのオープニングアクトまで上り詰めた後、みんなうまくなりすぎたと言って、あっさりバンド解散にも至らせた。

そんな彼のロフトにもアコステックギターがあって、遊びにいくたびに、私も適当にじゃらじゃらさせてさせてもらってた。
ブラジルの曲のギターの本がいろいろあったので、適当にカタカナ読みで弾き語りしていると、おかしなポルトガル語で歌う姿が面白かったらしく、
「僕たちバンドを始めるべきだ!」
ってことで、アー ティストの人は、思い立ったら即行動。
それからすぐに、私たちは語学学校帰りに練習を始めた。

bell_shoes

アマンドはすぐに曲を書いて、それも、英語の文法もバラバラで、歌詞もあまりメイクセンスしない。
「やはり、ここの文法さー、直した方が良いんじゃない?」
って、そう言うところが気になってしまう日本人の私の意見を全く気にせず、
「まずはリズムで、あとは気持ちが伝えられればいいんだから、これで良いんだ!」って。

些細な事を気にして、たまにくよくよしてしまう時は、そういうアマンドの姿勢と言葉を思い出すようにしている。
勿論彼もセンシティブで、落ち込む時も結構あるみたいだけれど。

アマンドのギターは壊れていて、チューニングが出来なかった。だから、一緒に弾くには、私が彼のギターに合わせなくては行けない。

それを理由に「バンド無理じゃない?」なんて、しばらくして言い始めたけれど、そんな言い訳を自分にしたのは、その頃私は好きな人が出来てしまったからで、それ以来ギターに触る日はぱたっと減ってしまった。

せっかく始めて楽しくなってきたギター音楽が、恋の竜巻に巻かれて、届かないところへ飛ばされて、消えてしまっていた。

それから、写真のことばかり考え続けていたのは事実だけれど、来たての頃のように、集中して毎日ギターを弾くことはなくなり、ほこりを被った私のギターも、何年か後には友人に引き取ってもらった。

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と、前置きが長くなったが、それから長い月日が経って、旧正月を迎えた先日、私は人生初めてバンドでの初パフォーマンスをした。

NYに移ってから、ミュージシャンと音楽に囲まれて、
「もし職業を選ぶことが出来るなら、ミュージシャンになりたい!」
って、しばらく言っていたのが、少し本当になってきた。

ハドソンに引っ越してきてから、NYに移り住んだ時と同じように、友達を作るのにも少し時間がかかっていて、特に農業がオフシーズンの冬は時間が急に増えた。家で過ごすことが多く、
「もっと外に出て、いろんな人に逢って、新しい友達を作るべきなのだろう。」
と憂鬱になることも少なくなく、ひとり、友達や友情について考えることが多くなった。
バーに行ってお酒を飲むこともなくなったから、余計友達作りの場所を限ってしまう。

でも、ある日、決めた。
友達は無理して作るものではなく自然と出来るものだし、今こうして与えられた孤独な時間を
(といっても、 最愛のパートナーと一緒に生活をしているので、全然一人ではないけれど)
もっとしっかり音楽の練習と本を読むことに費やして、勉強の時間に使おう、と。
一度決めたら、気分もすっきりして、なんだか急に毎日が忙しくなっ た。

自分の存在を宇宙の大中心に活動していた男性との生活のリズムが当たり前のようだった数年前までの私は、何かに熱中して作業をしていても、
”あ、夕飯作ってあげないと”
とか、
”買い物、洗濯行かないと”
とか、
”彼が待っているので早く帰らないと”
とか。
打ち込んでいたことを放り出して、二人単位で、自分の時間をさくさくと削っていた。
これは、女の人だったら当然だ!って思う人も沢山居るかもしれないけれど、でも、男の人も案外、しばらく一緒に、最初はときめいた美しかった女性と暮らしていくうちに、輝きの消えていく彼女を見ながら、逢った時はこうじゃなかったのになぁ、って淋しくなったり。これも、彼女を輝き続けさせるメインテナンスが、欠けていたのかもしれない。

ギターをやめた時もそうだった。
「女の人は、どうして、こう、男の人の生活に合わせ、本来高く掲げた自分の夢を見失いやすいのだろう。どのくらいの女の人が、男の人に左右されず、しっかり夢を追い、求め続けて、そして、サポートしながら生涯を終えるのだろう。」

と自問をよくした。勿論、とてもパワフルな見習うべき女性もいるけれど、自分が願う程、私はなかなかそうはなれなかった。

そんなことで、数年前、しばらく一人で居ようと決心して、とても良いペースで生活が流れて行った。思う存分、自分の時間を利用して、好きなことに打ち込めた。
たまに淋しくなったりしたけれど、それは、自分の中から満たしてくれるものがあったり、友人との会話等で、気にすることもなく、淋しくても、まぁ、いいか、という感じだった。
そんなときに、彼と逢った。

「女性でアーティストでいるということは、とても難しい」
と嘆くと、
彼は、
「男性でアーティストでいるというのも、難しいものだよ」
といった。

そうだよね。男の人も、大変だよね。そして、アーティストでなくても、難しい。生きて行くって、難しいものなんだ。

ミュージシャン/アーティスト彼と一緒に楽器を弾き始めたのは、2年半前だ。カジュアルに練習に参加して、子供のように自由に楽器を手に取って音を出すことが楽しかったし、彼も喜んで一緒に音を楽しんだ。

ちょうど友人からギターも譲り受け、自分でまた曲を作り始めたのも、その頃だった。

それから、いつかはバンドを組んで一緒に演奏できる日が来るかもしれない、と、叶わなさそうな夢を見ていたけれど、ハドソンに移ってきてから、音楽を練習する時間がどんどんと増え、この数ヶ月は、毎日何時間ものリハーサルを繰り返し、とうとうその日が来たのだった。

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< 私たちの音楽室>

私はコンサートの日取りが決まった日から、その数時間前まで、少し緊張していて、とにかく早くこれを乗り越えたい、と願うばかりだった。

パフォーマンス歴30年の彼は、
「コンサートとは、観客と一緒に神聖なものを作りあげて、共有するものである。
自分の虚栄のために演奏するものではなく、人と比べたり競争するものでもない。
なので、心配しなくて良い。」

と私にいつもながら素晴らしいアドバイスし続けていてくれたけれど、会場に着くまで、ドキドキして何とも言えない気持ちは、私の神経や血の流れを不自然に流れてさせているような気がした。

それが、待ち時間の間、私は寅次郎のようにコートを肩に羽織り、表をふらふらしたり、自分たちが作ったプログラムジンを読み返しているうちに、自分に平静心が訪れた。とても不思議であった。
腹が据わったのだろう。私は準備が出来ていた。

 zine
<自分たちの絵と写真で作った、プログラムジン。これからも作り続ける予定>

会場に来た人々は、勿論彼の演奏を見に来ていて、不思議な格好をした何者かわからぬアジア人の無名の私、それも、その日が人生初のコンサートということも全く知る余地もなく、1時間程熱心に私たちのコンサートを聞いてくれた。

演奏は完璧ではなかったけれど、間違いもありのままの自分の一部として受け入れ、それも面白く、観客の様子も観察しながら、途中でお腹が痛くなったりせずに、最後まで無事演奏が出来た。あぁ、良かった。課題は沢山出来たが、これで、また、向上の余地を見つけた。

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私は、小学校3年生のときに、学校のオーケストラのオーディションに受かって、バイオリンを習い始めた。
15人くらいの生徒が受かったが、そのうちの何人かはバイオリンのプライベートレッスンを小さい頃から受けていたり、ピアノを習っていたりで、スタート地点で大きな差があった。

当時〜学生時代まで、私は自分が一番になれないと全くやる気が起きないどうしようもない質で、先生の選ぶ曲にも興味がなく、4年間毎日弦楽器に触れていたものの、第一バイオリンに入ることはなく、成長が早く背が高めだった私は、コントラバスにまわされたものの、一番低いE(ミ)の弦を押さえるのも指が痛くて、勝手にF(ファ)になおして、ずるして弾いたりもしていた。

それでも、当時の嫌々していた練習の成果に、今は大きな恩恵を受けている。
そして、ギターのフィンガーピッキングをするときに、結構自己流でなんとか弾けるようになったのも、これはそろばんを習っていたからだと最近の発見!

長年、カメラの後ろに隠れ、表に出たくなかった私が、昔のように、ステージに上がっても大丈夫な自分に戻れたのは、個人的に感動である。
アメリカに移ってきてから、すべてのものが0からのスタートで、何度も自分というものを、多様な価値観ものと、崩れ壊され、また築き直さなければ行けない状況に何度も遭遇した。
日本だったら全然平気だった慣れない場所で 、例えば前の会社のカンパニーミーティングなどで、大きな声で間違えないように、大勢の人の前で何かを発言したりするのは、本当に冷や汗をかいたものだった。

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この冬は、私が手伝っていた農家でも組み込まれている、ルドルフスタイナーのバイオダイナミック農法や、福岡正信さんのわら一本の革命などの農業の本を読んで勉強する傍ら、こうして日々、音楽の練習に励んでいる。

今回は、農業について書こうと思っていたが、もう少し、体験した事に勉強した知識を加えて書きたかったので、この数日のことを書いてしまった。

音楽を通して、沢山のことを学びだした。音楽を取り巻いて、沢山のことを経験し始めた。

36歳で。

多くのことが繋がっている。

今読んでいる福岡正信さんの「わら一本の革命」(春秋社)という本にも

”〜 薬剤散布は、病虫学者の問題だけではなくて、いわゆる、人間の真、善、美を追求する、すべての者、哲学者、宗教者、それから、美を追求する芸 術家も参画した検討会を開いて、農薬を散布しても大丈夫なのか、いけないのか、肥料をやるということは、どうなのか、ということが論ぜられなきゃ行けない んです。宗教家だから田圃のことは知りません、肥料をやるとか、やらないとかは関係ないって言うような考え方をしてもいいのものか。美術家が、画布の上で、秋の展覧会に出すために一生懸命に部屋の真ん中で絵を描く。外には一歩もでなくて、自然の美は何であるかということには無関心で、抽象画を描きゃ良い んだ、やれ、いかに、自然から離れていることか。自然というものよりは、人間の知恵、人間の考えた、真、善、美の方が、偉大なように錯覚しているが、一度でも、その田圃の中の小さなドラマや驚異の世界を見てみたら、そんな、人間の知恵とか、考え方というものが、いかに浅薄なものであるかということが、一見してわかるはずなんですけれど。”

ハドソンに移ってきてから、一人の時間と、農家での作業も通して、自然の音に心を傾け、自分の心の声を再確認し、いろいろなことを学びながら経験できた機会を授けられた事に、とても感謝している。

古いものを出さないと、新しいものが入ってこないのかもしれない。
仕事を辞めて、住み慣れた街を出て、新しい環境で、沢山の意味で新しく少し余地の出来た生活で、新たな挑戦を受け入れる。
そこから、いろいろなものが生まれだした。

頑張ることが出来ない日々もあったけれど、今は、それが出来るから、そうするしかない。

これでまた、男の人の生活に、また、影響されて行ったようだが、今回は、自分のやりたいことを、しっかり続けられるようになってきた。
彼がよく替わりに洗濯に好んで行ってくれて、私が忙しいと、夕食も作ってくれる。買い物も車でささっと行ってくれる。

お互いに助け合って生きて行かなくてはならない。お互いの立場も、考慮し合わないと行けない。

これから、何かの保証が出来た訳でもない。

でも、一つ保証できることは、一家に一台、アコステイックギターがあることは、今までよりも素敵な生活を導いてくれるはず。

新しい外国語のアルファベットを学ぶのと同じようなものだ。最初は少し時間がかかるが、一旦その文字を覚え始めると、新しくコミュニケーションが出来、新しい世界が広がってくる。ギターもそう。練習すれば、必ず達成するものがある。

練習の成果で、BmやFのコードが弾けるようになってきた。
去年くらいから、やっと深くわかるようになったボブディランの心に響く歌詞を、少し歌えるようになってきた。

bob

今週も二つ、コンサートが入っている。
怖いと思っていたものが、とても楽しみになって行った。
これはこれから、写真を撮る時にも、大きな力になってくれると思う。
そして、ニューヨークに行ったら、ぜひ、地下鉄で演奏してみたい。

どうか、世界よ。コーポレート音楽を流すのは、最小限にしてください。
それで、音楽家の人々も、コーポレート音楽を作るのは、やめてください。

photo

<うちにはテレビがはないので、勉強のため、ネットでグラミー賞をみようと、久しぶりにメジャーのメディアにエクスポージャーされた時間。バックステージしか見られないことにしばらく気付かず、我慢するために、スケッチしながら過ごした夜(左ー私、右ー彼のスケッチ>

今日はスーパーボールの夜。下のお家から、大きなコマーシャルが聞こえてくる。
もしそのコマーシャルの内容がわかったら、そのすべてのプロダクトをボイコットしたいと思う。

長いジャーナル、読んでくれてどうもありがとうございました。

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