2.7.14. 瀬高早紀子
いつだったか、姉と昔話しをしていたとき、あれが外国だと思っていたよね、とその話をしたかったわけでもないのに、話の終着点はそこにたどり着いた。そうだよね、だよね、というだけでなんの落ちもない思い出話。
〈ポートランドに来る前に立ち寄ったハワイのモロカイ島。わたしの実家以上に、高い建物はない。〉
「小さいときあなたは姉ちゃんのあとをついてまわるばかり。東京はこわい、東京には住みたくないといっていたのに、東京に10年も住んだら、海を越えて一番遠くにいってしまったね」
母からもらった手紙にはこう記してあった。母は少々、がさつなところがあるので、間違ってもペンでぐるぐると消すだけでそのまま気にせず書き続けている。
その筆跡は年を取ったわたしの涙腺を容赦なくふるわせる。だから一回読んだ切り。たまに思い出してみては、そんなこと言ったかな? と自分では不思議だけど、家族一同満場一致でそんなだったのにね、と口をそろえる。
もう早くどこか都会に行きたくて行きたくて仕方なかったことのほうが、ずーっとよく覚えている。わたしにとっては埼玉も千葉も神奈川も東京だったのでそのあたりに行ければ、どこでもよかった。
テレビ東京が実家のエリアには存在してなくて、深夜や日曜の昼間に地元のテレビ局に割り振られていて放映されていた。
「これは◎月△日に関東圏で放送されたものです」なんてテロップが出ると、ちょっと屈辱というか、完全にここは、わたしの住む世界は、都会とは切り離されたところでまわっているのだ、とさらにだめ押しされたものだ。
お昼代にたまにもらう500円を200円ですませたりして、浮いたお金を雑誌を買うのにあてていた。雑誌だけはわたしを平等に扱ってくれた。平野と高速道路、その向こうにある山、通称、外国のアルプス。それくらいしか家のまわりを取り巻く風景で挙げられるものがないことにわたしは劣等感もあった。身近にあるものを、ちゃんと見ることも感じようともせずに、頭をたれてしまう方が哀しいわ、と今になって思えるけれどその頃のことを否定もしたくない。
90年代後半。ポケベルが出始めて、コギャルの前兆くらい。ピッチがいつの間にかふつうになりかけていた過渡期。わたしはどちらにも全く、興味が持てず、好きだった雑誌とも少し距離があいていく。
友達は満ちてきているのも気づかずにシャッターを切り続けていた。〉
完全にポートランドの話とは関係ないことをいま書いているがこの全部があって今がある。ここに触れていない、どんな些細なことが欠けても今はない。
わたしはいつも何をするのにも飲み込みがおそくて時間がかかるタイプだし、つまり不器用で優柔不断でもあって、ほんとは超がつく小心者で、初対面の人と会うときは一番最後列に引き下がり、ときには隠れてもいた。
憧れ過ぎた東京にたどり着いたときは、こんな性が真っ先に躍り出てしまっていた。
大好きな人に会ってそっぽを向いてしまうほど空回りしている自分を、傍観できるほど後ずさりしていた。
「クズでのドジでのろまの~」という懐かしの名台詞に近しいものを浴びせられることもしばしばで、それを聞けば聞くほどわたしはなぜか冷静になってしまう。
「社会で苦労するタイプね」とバイト先のおばさんに言われたときは、哀しさや悔しさが先に立つはずなのに「はあ、そうかもですね~」と本当にそれ以上でも以下でもない反応しか出てこなかった。
そんなわたしを、友達のお母さんはある日、「生きづらそうね」とたとえる。
自分のことながら「そうそう、わたし生きづらかったの! 」と膝を打ってしまうほどだった。途端、突き抜けるほど気持ちよかった。
この社会、小さなわたしの見えている範囲だけの社会。あのおばさんが言う社会に、どうにか合わせようとしていたけど、そもそも合わないんだってわかったら、じゃあそうじゃない方法もあるんじゃないかと、光が射したようだった。
ノストラダムスの大予言も2000年問題も、同じような一日として過ぎ去っていき、20歳になる。
国内外、観光じゃない旅をし出したのはそれからだった。もっと見たい。いろんな暮らしを見たい。いろんな人のいろんな生き方を見たい。初対面の人や大勢の人たちがいる前に行くたびにひとりかくれんぼしていたわたしは、もうどこかにいなくなっていた。
いまもまだ自分の英語にはがっかりするばかりだけど、いまを100としたらその当時はマイナスくらいの語学力。それでもどうにかコミュニケートできていたのだから、ハートはとてもたくましくて頼れるものだ。頭ではなく、ハートにまかせて生きることを学び始めたばかりだったわたしは「就職しない」と迷いなく決めた(口に出して人に、特に親に伝えるには勇気が多少必要だった)。
社会が決めた時期が来たからという理由で、自己分析をして自己アピールして何をしたいかなんてわからなかった。
22歳でわかったのは、わたしは旅を続けたい、ということであって、どこかの会社に入りたいことではなかった。
それを確信づけてくれたのはドイツで知り合った当時、30歳の学生。もう何年も大学生をやっていた男の子(そのときはおじさん、と思っていたが)。
「だって会社に入るための勉強じゃないから。勉強していることに満足したら、それがいかせる働き方を見つければいいんじゃない」。
なんの疑いもなく、そう話す彼によってわたしは覚醒した。一時のものじゃなくてハートの底上げにも似ている。
「いくつになっても学ぶことはできる。一から始めることはできる」
その言葉は何かあるごとに浮かび上がってくる、わたしのなかのお守りのようになっていた。
そのドイツ人の彼と同じ30歳になった頃、お守りはお告げのようにも聞こえてくる。
すっかり旅もご無沙汰してしまって、目の前のことにせいいっぱい。仕事が95%、いや99%の都会での毎日。
しかもぺーぺーのフリー稼業ということで、毎月、これで家賃が払える、このくらい自由に使える、とお金があっての生活になっていてそれが頭では「なんかおかしいな」って思っているもんだから余計にやっかいに分裂。わたしは困ってしまっていた。都会都会、といっていたあの頃のわたしに言ってやりたかった。都会というのは、田舎に対するひとつの反対語、表現法のひとつでしかなくてわたしが思っていた都会は私がつくり上げていたものである。幼き頃、外国と思っていたアルプスも行ってみたら、自分のいる世界の「内」でしかない。「外」の国ではない。
<ベルギーからカナダに入って西海岸を自転車で縦断していたこの男子。>
わたしもポ―トランドに旅行で訪れていたときに偶然、出会う。彼もまた、学校を終えて旅をしている最中だった。
「(自国に)帰ったらどうするか? そんなのわからないよ」ってそうよね。
「一から始めることができる」。
ドイツ人の彼のその言葉のとおり、わたしは初めての場所で一から暮らしを学んでみたくなった。(前にもここで書いたけれど)自分をいちいち実験できる場所に住んでみたくなった。
それがポートランド。一回行った切り、もう二度と来ないだろうな、と見下し半分だったアメリカ。消費大国。下品でモラルがない。自分の内の世界で一口味見して以来、食わず嫌いを決めこんでいたアメリカへ。
ポートランドは、わたしのそんな低能で浅はかなイメージをも、だよね~なんてやわらかく受け止めた上で、さらっと振り切ってしまう。
そんな予感がこの街自体に漂っていたのだ。
後半に続く