3.12.14 瀬高 早紀子
後半に続く、
といいつつ1ヶ月も間が空いてしまった。わたしはその間、何をしていたのだ。
2月の大雪のあと、日本のそれとはまた違った角度で盛り上がるバレンタインは素通りし、シカが舞い降りて来るマウントレーニアのふもとで沈黙と呼吸への意識を送る。可能な限りの電磁波と人工物から遠ざかった数日間。‘11年の夏に体験したあの*瞑想。自分の体に生じる感覚、それに反応する感情を客観的にとらえる、その連続は(わたしにとって)練習、訓練である。でも次第に、不安や怒りってなんなんだ? という哲学的課題にも言葉ではなく、感覚として理解できるようになってくる。そしていかに自分が、いまではなく、過去や未来を思いながら生きているかも(頭ではわかっているのに)。自分の集中力の彷徨い加減には毎度、本当にびっくりさせられるが、ここで感情を揺らがせたらまた元の木阿弥で、そんないまの自分を、ありのままに受け入れるしかない。
たった数日間でもその期間が終えると、下界に降りてきたように思える。現実の色が、少し違う。ライドシェアした帰り道、ポートランドではこの時季よく見かける春雨にあい、工業地帯と川岸にあるダウンタウンと並行して走るハイウェイをふと振り返るとレインボウゲートを通過していたことに気づく。分度器、という言葉を数十年ぶりに思い出すほど鮮やかに描かれた180度。
この世に、数日前に降りて来たばかりのその人に、両手のひらでハグしに行く。わたしのいう下界とあなたの下界は同じもの? 嫉妬とか、不安とかそういう感情はまだこの子にはなく、ただそこにいる。生きている。そんなことを感じていたら「胎内記憶ってすごい」というメールに目が止まる。いきなりのセンテンスだったが、あの子にもすでに記憶がある、つまり感情もあるのか、と思い直してみたりした。
ポートランドの春は、突然にやって来る。梅、スイセン、ムスカリ、椿、ヒヤシンス、モクレン、野の花々。1ヶ月前に大雪だと人間は騒いでいたにも関わらず、きみたちは、素知らぬ顔で、その唐突さと(日本人のわたしからすると)無秩序な順序でやって来る。というのは人間のセンスであって、自然のままにあるがままに時季をむかえているのでしょうけど。もう30回以上は、春の喜びを感じているはずだのに「人間とはああ、なんと忘れっぽいものか」。そう言葉にすると反応してくれる友がいた。忘れっぽいっていいね!
随分、意外な反応だったが、彼女がそう言った背景となる、あるお祈りをここに借用させていただく。
今日の行いは終わりました
学んだことを休ませましょう
私の中で芽を出して
知恵と愛と力になるように
私が世界の人々によいことを成すことができますように
随分と納得できた。忘れっぽくていいのか。忘れているようで、まっさらになっているだけなのか。掘り返したあとの土をならすように。その上で、種は確実に育つものなのだ。だからわたしたちは感動できるのだ。
3月10日。日本時間で3月11日の午後にあたる時間に、**福島やウクライナの女性たちの生きた声が聞ける上映会の手伝いをした。そこに集った、たくさんの人たちが「忘れかけていたことを思い出させてくれる機会をありがとう」という。忘れっぽい人間だからこそ、逆に無意識の記憶とは、時にとても強いパワーを放つのかもしれない。「子ども心に見たチェルノブイリの映像が忘れられなくて、いまここにいる。この機会に参加しているのだと思う」という人もいた。
ポートランド通信4前半のしまいでは、ポートランドに来る、という話しの流れになっているが、その前にまたちょっと巻き戻らなければならないことがある。
わたしは、迷っていた。
3年前の3月はすでにもうポートランドに行くことに決めていたけれど、こんなときに外国に行っている場合かよ、という自分への突っ込みも当然あり。物事を天秤にかけられることができたら、真っ先にそうして従うところだけど、そこに感情とか思考とかが加わると重力ではさからえない複雑な重さが、天文学級に増していく。
11年、8月6日。わたしははじめての広島を被ばく医師の肥田先生(御年97歳!)の勝手に護衛係となって数日まわる。そのきっかけを与えてくれたのは下北沢特派員のやごやご。未だに誰にもわからない正しい健康な生き方について先生はもうずっと前から「食う、寝る、食べる。に加え、排泄、労働、遊びと休養、そしてセックスのバランスよい行為」と説き続けている。それを聞きながら、先生のように、被ばく者の声をただ受け入れて、聞き続けてくれるような同士がいることも彼らの生きる杖になっていたはずだ、と感じた。
雨の季節の始まりの頃、ポートランドにいた。ダウンタウンの一角を埋め尽くしていたのは音楽を奏でる人々、テント群、犬、スケーター、ダンス、下着、ダンス、ハミング。「We are the 99%」を掲げるメッセージの数々。パンやチーズ、コーヒー、トイレットペーパーを寄付しにくる市民。何かのパーティーだと信じて、数日間そのまわりを徘徊していたら、それは失業率の高さや金融業界の不正なる私服の肥やし方、格差問題などに声を上げたOccupy Wall Street[ウォール街を占拠せよ]のムーブメントであると、これまたやさしい表情を持つフリージャーナリストが教えてくれる。
彼らは反旗を翻している。We are global uprising! 確実に怒っている。はずなのに、そのダンスする体が描くラインも裏返したバケツでたたくベース音も、あまりにもしなやかだった。怒りのエネルギーとは感覚的に違っていて、わたしは公園のまわりから中へ中へと入っていた。
日本人はおろか、アジア人はひとりたりとも目にしなかった。珍しさからか、フレンドリーに声をかけてくれる人も多く、お腹へってない、寒くない?と気にかけてくれる(それはこちらの台詞だ)。その暗がりで何をそんなに楽しそうに料理しているのか、テントのなかで何をして過ごしているのか、わたしはその見えない部分をそばに感じてぞくぞくしていた。
あの3月から1ヶ月後に、はじめていったデモ。移住した友達を訪ねる旅。脳みそがこげるくらいの情報量への直感的対策。原発。母子。HEIWAを謳うソングライター。政治へ、いや、ただふつうに真っ当に生きることへの無力感と失望と、失望する自分への叱咤。
「革命が起こっている」。
太平洋の対岸越しに上陸してすぐのわたしは、わくわくもしていたのだ。
*瞑想が気になる人はこちらへ。http://www.jp.dhamma.org/index.php?L=12
**上映したのは『カノンだより』日本での上映スケジュール。
http://kamanaka.com/works/works-next/
忘れる事は覚える事と同じだけの意味と大切さがあると思います。
偶然このサイトに来ました。先月シャスタの帰りにポートランドに一泊。なんだか素敵な空気を感じました。またポートランドの記事楽しみにしています。サステイナブルな感じがとってもいいです。何か引かれます。