1.1.15 矢郷 桃
このジャーナルの最初の投稿は、去年の年始だった。最初のポストに冬至のことを書いたから、季節の変わり目に書いていきたいと思ってたけど、時が過ぎるのは早くなかなか書くことができなかった。2015年の新年をまた迎えてしまったけど、振り返りつつ、書いていきたいと思う。
梅雨の雨がここ下北沢の地面にもしとしとと降る頃、私は久しぶりに一冊の本を思いだして手にした。最初に読んだのはたぶん10年くらい前。その頃好きな小説をいろいろと教えてくれた目上の方がいて、頂いて読んだ本だった。ふとあの本には何が書いてあったんだろう?と本棚から掘り出した本の帯には、「1938年夏、リスボン。ファシスト政権下、ひとりの新聞記者が、ある決意をかためた。」と書いてあった。ファシスト…?、遠くに思えていたけれど、ここしばらくデモや抗議の場で聞くようになった言葉だった。

日本の政権についた安倍政権は、集団自衛権行使容認をしようとして、憲法9条のあるはずの日本が戦争に加担するかもしれない、それがいつか本格的な戦争への道へとつながってしまうかもしれない…、私や周りではそんな不安を感じはじめていた。
『供述によるとペレイラは…』は、第二次世界大戦に向かおうとする不穏な空気のヨーロッパのポルトガル・リスボンが舞台の小説で、あまりぱっとしない新聞社で文芸面の記事を担当するペレイラの物語だ。先に妻をなくし、子どもはなく、太りぎみで医者から警告を受けている冴えているとはいいがたいペレイラが、夏の暑さのなかのリスボンでふとしたきっかけで抵抗運動をする若者と出会い、知らぬ間に巻き込まれていく。暑さのなか息を切らし階段を昇り着いた孤独な部屋で亡くなった妻の写真に話しかけるペレイラ、繰り返しカフェで飲むペレイラの好きなレモネードと夏の光が交わる、その日常のなかにも暗い影が見え隠れする…
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梅雨のころ、私は仕事で島根に行ったついでに移住した友人を訪ねた。東京にいた友人は私の家の近くに住み、一緒にさまざまなことをしたり話をしたりして、そして以前からの願いを実現させてパートナーとともに島根に移住した。震災後、私の周りの友人の何人かは関東を離れて行った。親しい友人も多く、そのたびに寂しくもあり、でも旅立ちを祝福した。移住の理由は、放射能の問題もあるが、時間に追われ、お金や遠くからの資源に依存している東京の暮らしから、それぞれの地で新たな豊かさと向き合い模索する、そんなことのように感じる。

友人の自宅の近くの無人駅「日登」駅で
歓迎し迎えてくれた友人は温泉に、長めのいい丘に、美味しいご飯屋さんに、古くから人が参ったであろう場所にと、たくさん連れてってくれて、夜には今までにないくらいたくさんの蛍を見た。
短い滞在だったけど、その間友人と移住した地の話、これからの話などをした。元気そうな友人とパートナーと新しい家の小さな畑と育つ苗を見て、安心して東京へ戻った。
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帰ってきて、夏至の朝日を見ようと昨年も向かった真鶴へ向かった。真鶴は太平洋に突き出た小さな半島で、半島の先にはうっそうとした原生林が残っている。その森は魚付き林と呼ばれ、林は海を豊かにしてる。真鶴には大きな港があり漁業が盛んだ。子どもの頃に家族が小さな部屋を持って、子どもの頃からよく遊びに来た場所で、ぼろだけどその部屋がまだある。終電近くに電車で着き、半島の途中のマンションに歩いて向かう。ほんの少しの仮眠して、朝日を見るために原生林のなかの道を半島の先まで歩く。
道は大きな木の影で覆われてだいぶ怖い。でもこの暗闇を通りぬける感じがなぜか好きなのだ、暑くも寒くないひんやりとした湿り気の中で、一人で闇の中をもくもくと歩く時間が。闇が少し明るくなるころ、カラスが目を覚ましてきて、低くカァカァと鳴く。日が昇る前に半島の先に着いた。梅雨の時期でもある夏至にこれまで何度も朝日を見に出かけているが、太陽がきれいにみえることは今まで一度もない。この朝も案の定雲に覆われていたけれど、ぼんやりとした中に太陽の柔らかい光が現れ、海に反射し、海と空はとけ込むようで、やさしさと静けさを感じる穏やかな時間を過ごすことができた。

原生林(魚付き林)のなかにある漁師さんたちが建てた小さな神社
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そして、また仕事で東京を離れた。次は沖縄へ行った。梅雨の終わりの沖縄は思っていたより暑くはなかったけど、びっくりするほどの湿気で、ぬるま湯の中で過ごしているようで驚いた。普段はほとんどクーラーを使わないけど、送風にしないとホテルの部屋で眠れない。そうしているうちに、滞在中に梅雨が開けて、抜けるような青空が広がった。最後の日時間ができ、仕事でお世話になった沖縄の方がひめゆりの塔へ連れてってくれた。沖縄に米軍が上陸して、北部へとどんどん追い詰められる中、陸軍病院の看護の任務にあたっていたひめゆり学徒隊に解散命令が出て、ちりじりになり砲撃にやられたり、自決したりたくさんの犠牲者が出たのは、ちょうど6月のこの頃だった。その時の様子の伝わる克明な展示。展示の最後には生き残った学徒隊の方々のインタビューが流れていた。「生き残ったから、運が良いとか、亡くなったから運がないとか、そういう問題ではない。自分は生きて、亡くなってしまった人たちに申し訳ないと…」
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東京に戻ったある日、私は友人の女子たち※1と新宿駅の駅前の雑踏でいても立ってもいられない気持ちで日本国憲法第9条を読んだ。梅雨の合間のまぶしい光がアスファルトの上に照り返し、休日の人の行き交う賑わいの中を歩きながら読む、私はそれを記録した。
それから、午後続けてあったデモに参加した。まぶしかった光に雲がかかり、どんどんと空が暗くなって行く中をデモ隊は声を上げて進んでいた。そうしている内に大粒の雨がぱらぱらと落ちて来た。カメラを手に、傘のなかった私は急いで駅に逃げ込んだが、デモ隊はどんどん進んで行った。傘を買った私はデモ隊に合流した。
ずぶぬれになったみんなはやけになったのか、晴れ晴れとしたのか、大きな通りを抜ける時にはデモ隊は踊るように通りすぎた。生きていること、叩きつけるように肌を濡らす雨にそれを感じているかのようだった。濡れた服のまま電車に乗る帰り、同じ駅の反対側で私たちが憲法第9条を読んでいたのと同じ時間に、集団的自衛権行使容認反対と叫び、焼身自殺を図った人がいたことを知った。
そして翌日、翌々日と続けた行われた集団的自衛権行使容認反対の国会前のデモに通った。人々は口々に「ファシスト反対!戦争反対!」と声を上げていた。
梅雨が明け日差しが強くなる頃、パレスチナに爆撃が繰り返されるニュースを目にした。子どもの頃から戦争はとても苦手だった。遠くにあるように感じ ていたモノクロの戦争の写真が、今は鮮やかなカラーになって叫びを伴うかのようにテレビやネットから流れてきた。その前のデモの熱が身体に残る、だけど日 常が続く中で、繰り返し流れてくるカラーの映像、自分がいくつものフィルターの中で生きているように感じたものだった。

7.21.14に明治公園で行われた【STOP!空爆 ガザの命を守りたい キャンドルアクション】。弱い風が吹く中、灯が消えないように、そっと手で覆う、手の平の中の灯が一つの尊いかけがえのないいのちのように感じた
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ー こころが命じることには従わなければいけない。どんなことがあっても、だ。こころ、ねえ。ぼくはそれも賛成だけど、目は開けていなければならない。※2
ペレイラの言葉と日常とリスボンの夏の暑さと光と、幾重ものフィルターの中で生きているような気分のなか、私にも本格的な夏がやってきた。
つづく
<参照>
※1 WOMEN IN BLACK JPN:
http://womeninblackjpn.wordpress.com/
※2『供述によるとペレイラは……』より(アントニオ・タブッキ著 須賀敦子訳)